「横山武夫と高村光太郎」

小笠原 哲男 (十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会 会長)

横山武夫と書くことに大きな困惑を覚えつつ、公人として扱うときいわゆる呼び捨ての形になることを遠慮したい人である。
旧制青森中学校が新制青森高等学校になる時期、筆者にとって校長先生であった。高潔な人生観を持ちアララギ派の歌人として自ら歌誌「あすなろ」を主宰し、スポーツはテニスを得意とし若い頃から国体選手として活躍された文武両道の達人として尊敬すべき人なのである。
歌人文人としての世界で高村光太郎の詩歌作品およびその思考力を支えに彫刻を続けていたことも認識されていたと考えられる。

昭和21年12月に校長を退職され、即だったか何か月後だったかは忘れたが当時の青森県県知事津島文治の副知事として行政に参画し、十和田国立公園指定15周年記念事業として、大町桂月、武田千代三郎、そして地元村長小笠原耕一と、3人の功労者の顕彰記念碑の建立に当たり、その制作を詩人としても日本の彫刻界ででも高い評価を得ている高村光太郎に依頼することに決定し、翌昭和27年4月に当時岩手県花巻市の山荘にこもり一人暮らしをしていた高村光太郎のところに礼を尽くしてお願いに訪れたという。

写真:高村山荘(岩手県花巻市)にて撮影

その時、高村光太郎先生を訪うと題して
「こひ願いひたぶるにわれの訪ね来て心ゆらぎ立つ君が門べに」と和歌を詠んでおられる。

高村光太郎も太平洋戦争中、日本人として愛国的な詩や文章を発表したことへの反省として山荘暮らしをして公の場に出ることを自戒してはいたが、三顧の礼を受けては我を通してばかりは居られず、佐藤春夫からの手紙による推薦もあってようよう現地視察と言う所まで漕ぎ着けたと言う事のようである。そして昭和28年10月21日除幕式を迎えることになった。

今年、2013年は高村光太郎生誕130年に当たる。我々の会「十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会」結成記念講演は、高村光太郎の最愛の妻を詠みあげた智恵子抄にちなんで福島県二本松町の「智恵子の里レモン会」会長伊藤昭氏にお願いした。

わが故郷の自然の象徴ともいえる十和田湖に立つ、まさにシンボル的存在になった乙女の像建立60周年に当たる本年、振り返って考えてみると建立当時いろいろ批判的ことばが聞こえていたのを思い出す。我々日本人は公共の場で裸をさらす事には大きな羞恥心を持っているので当然といえば当然な反応だったろうが、特に高名な作家の作品で、デザインも完全に任せての制作であってみれば穏やかな言葉で現状を肯定できなければならず、高村光太郎の実績と社会的評価の高さとで大いに文化的影響を受けている自覚もあるので、なんとか納得できる評価の言葉を模索しながら時間を過ごしてきたのが事実である。

当然本事業達成のために三顧の礼をもってお願いした横山武夫にしても、神秘の湖に裸婦像を建立したことへの県内外の批判の声は聞こえていたと考えることはできる。
旧十和田湖町で横山副知事の講演会が開かれた時、十和田湖の環境に裸婦像が建てられた問題に触れられ、高村光太郎は岩手県の山の中でまるで自分を虐めるかのように苦労の多い生活をしていて、常に人恋しい思いを抱いて生活をしていて本来的に人間そのものに強く心を惹かれての毎日で、それはまるで人間に飢えているがごとく激しいほどの願望であったようで、その様子のことを「人体飢餓感」と表現して説明されたのが強く印象として残っている。

それからほぼ50年を経て、2、3年まえのこと高村光太郎の詩集を読んでいたところ
「人体飢餓」があった。「彫刻家山に人体に飢えて 精神この夜も夢幻にさすらい」「戦争はこの彫刻家から一切を奪った」。と岩手の山中に籠ってからの作品である。

高村光太郎は24歳から27歳までの3年間、アメリカ、ヨーロッパに留学したがその頃のオリジナルの彫刻作品が残っていないところを見ると文化文明の違いから受けたカルチャーショックの大きさがしのばれる。
赤裸々を恥じる文化と、赤裸々を誇る文化、このせめぎあいが「人体飢餓」まで繋がっているように考えられる。

智恵子抄をひもとけばまさに至高の愛の形に、智恵子の完成の鋭さに驚かされ、光太郎の智恵子への思いやりの深さが並みのものでないことが汲み取れる。智恵子亡き後、智恵子の親兄弟らに対する生活援助の誠意の高さには心底その人格の高潔さに頭が下がる思いを禁じ得ない。

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