写真:高村山荘にて
2013年11月15日、東京へ出かけ「高村光太郎」と妻「智恵子」さんについて新しい発見がありました。
今回訪ねた方は東京文京区にお住まいの高村光太郎さんを知っているお二方です。
一人は高村光太郎記念会事務局長で、色々な資料(乙女の像の最初のデッサン画、原稿用紙に書いた物、花巻の炉端から発見された野兎・・・etc)を保存している北川太一氏です。
北川氏から、光太郎と智恵子さんの結婚の届出をした戸籍書類コピーを見せて頂くと、奥さんの名前が「智恵子」でなく、カタカナの「チヱ」でした。(レモン忌参加のおり見学した智恵子さんの生家、造り酒屋の案内板には長沼智恵子、そして満福寺の実家の墓前の花いけには「ちゑ」とありました。)
もう一方は高村光太郎さんの甥の方で写真家の高村規氏です。
この方からは、父の光雲や、家族みんなに「ミツタロウ」と呼ばれていたとお聞きしました。
その名前が「コウタロウ」にいつから変わったのか?
その変わった時期が、明治35年、光太郎が19歳の時に発刊された美術学校の卒業作品集に「kotaro」とルビが付いていました。その前の作品にはM・Tのイニシャルです。
写真:北川太一氏提供資料
私が思うには、凄く有名な父光雲の子供としてプレッシャーがあったのではないか?そして、卒業と同時に芸術の道でも親から独立を目指す為に呼び方を「ミツタロウ」から「コウタロウ」と変えたのではないか?
光太郎の彫刻作品は数少なく、詩人で有名です。
また、奥さんの呼び名が「チエ」から「智恵子」に変わったのかもすごく興味があります。
もっと調べていこうと思います。
詳しく教えていただいたお二人に感謝申し上げます。
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